柔らかい本質

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柔らかい本質

EUKARYOTE


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EUKARYOTEでは、2025年6月13日(金)から7月6日(日)の会期で、菊池遼による個展「柔らかい本質」を開催いたします。

菊池はこれまで事物の存在に関する思索から作品制作を行ってきました。その中で菊池は、事物の存在の背後に「主観による意識の上での世界の切り分け」という分節行為を見出し、事物の存在が主観に依存したものであることを強調してきました。
〈void〉ではそうした世界観における事物の儚い在り方が表現され、〈parousia〉では個々の事物よりもそれを生じさせている輪郭線の方こそが実在であるという逆転した発想が表現されました。また、〈idea〉では、そうした輪郭線の特殊な在り方がインスタレーションとして表現されました。

本展「柔らかい本質」ではそうした思索がさらに深められ、「存在」と「認識」の関係について絵画を通じて問いが投げかけられます。
鍵となるのは、「イコン(聖画像)」とマグリットの《イメージの裏切り》という対照的な二点です。「イコン」は神への「窓」でありながら、神そのものではないと論じられてきた歴史を持ちます。また、マグリットはパイプの絵に対して、「これはパイプではない」と言い切ります。ここに菊池は、「イメージ」と「イメージが指し示す対象」とのあいだの隔たりを理解します。菊池はこの隔たりの生み出す緊張関係に着目し、「絵は絵でしかない」という表象の限界に向き合い制作に取り組みました。

新シリーズの〈aporia〉では、言葉という要素が作品に取り入れられ、さらに、ハイブリッド画像(鑑賞距離に応じて複数のイメージが現れる画像)の仕組みが導入されました。それらの作品が鑑賞距離の変化とともに示す二重の意味は、私たちが日常生活の中で受け入れている現実の確からしさに疑いの目を向けさせます。「同一」のものが鑑賞距離を変えると別の意味として現れてくる様子は、事物の「同一性」に関する観念に揺さぶりをかけるのです。菊池は、こうした視点の移動や文脈によって常に変容し続ける「本質」を、伝統的に考えられてきた固定的で普遍的な「固い本質」と対比させて、「柔らかい本質」と名づけました。

絵画は「イメージ」と「物質(絵具や支持体)」という相反する性質が同居したものですが、それらの要素は絵画が制度的に「触れることができない」ために、いま見えているものがそのどちらなのかを厳密に確定することは不可能です(絵画における視覚内容のうち、触れられないのが「イメージ」で、触れられるのが「物質」)。つまり、「物質」を絵画の「本質」だと想定したとしても、そこには鑑賞上の決定不可能性が含まれるのです。

菊池は、こうした絵画の備える様々なゆらぎ──「イメージ」と「イメージが指し示す対象」のあいだの隔たりや、「イメージ」と「物質」の確定不可能性──を駆使して、世界を切り分けかたちづくる、「柔らかい本質」に私たちのまなざしを向けようと試みます。そこでは、固定された真理や唯一の答えを否定しつつ、すべてが相対化される虚無へは陥らない、かすかな秩序や意味が模索されています。それは、私たち一人ひとりの見る距離や立場によって、幾重にも揺らぎながら立ち現れる、現実の新たな姿です。ぜひ、菊池の新たな境地をご高覧ください。

休廊日

月・火曜日

デザイン

HOO VOO


「柔らかい本質」

……神を描くこと。
中世は聖職者がイコンを描いていたわけで、恐らく、敬虔な信者であればあるほど、その行為に含まれる矛盾に悩まされていたことだろう。

絵は絵でしかなくて、どうやっても本物にはなり得ない。
つまり、絵として描きあらわされた神は──その〈本質〉を欠いた、しかしなお、それでも「神」であるといった──矛盾を含むものなのだ。

そうした矛盾を止揚するために、イコンは神の〈本質〉にアクセスするための窓だというロジックが生み出された。
つまり、絵それ自体に描かれた対象の〈本質〉は宿っていなくとも、絵を通じてそれにアクセスすることはできるということだ。

その理屈は理解できる。
しかし、私は画家として、中世の画家(聖職者)が感じていただろう、絵と描かれた対象のあいだに横たわる、果てしないほど膨大な距離につい思いを馳せてしまうのだ。

自ら描き出したものが、虚であること。〈本質〉を伴わないということ……。

近世(ルネサンス)に至ると、絵画は別の意味で窓として理解されることになる。

そこにおいて、絵画は自身の媒体としての性質を透明にし、描かれた対象そのものとして見えることを求め出す。
あたかも、透明な窓を通して、それそのものを見ているかのような──まるで、描きあらわされたそれが、その〈本質〉を備えているかのような見え方を。

中世において、事物は神のうちに宿る〈本質〉に基づいて創造されると考えられていた。そこにおいて、神は他に比肩するもののない、唯一の創造者としての位置を占めている。

しかし、近世に至ると、画家の仕事は、それまでの賤しき手業から、神の創造にも比肩する営みとして考えられるようになる。

そこにおいて画家は、精神のうちに宿る創案をもとに、あたかも〈本質〉を備えたかに見える事物を画面上に描き出すことができる存在と考えられるのである。

以降の絵画は、その媒体としての側面を隠すように、自身を透明な存在として──まさに、窓であるかの如く──振る舞っていく。

おそらく、ここでの画家の心中には、中世の画家が感じていただろう、絵と描かれた対象のあいだに横たわる膨大な距離そのものへの自覚や、そこへの戸惑いと苦悩は存在していなかったのだ ろう。 むしろ、ここでの画家は、神の創造の如く事物を描き出すことのできるその手腕に、自信をすら持っていたように思われるのだ。レオナルドによる、絵画への信頼に基づいた言葉を読んでいると。

とはいえ、透明化していた媒体にも少しずつヒビが入っていき、近代に近づくにつれ、徐々にその姿があらわとなっていく。
つまり、画家の個性や感性を重視したロマン主義において、絵画は、筆触から画家の感情を鑑賞者に伝達する術を明確に自覚したのであって、そこから絵画は、自身の物質的な基盤を徐々に前景化させていくのだ。

そして、その世紀の末には早くも、かの有名な──「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以 前に、本質的に、ある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを思い起こすべきである」という──宣言がなされることになる。

中世に絵と描かれた対象とのズレに悩んでいた画家は、近世に媒体を透明にする術を見つけ、自身を神に準えることで自信を獲得するわけだが、近代に至ってとうとう──絵画を描かれた対象からではなく、その物質的な基盤から考えるようになるのだ。

……個人的に、先の宣言の中の〈本質〉という言葉に目を引かれる。
ここに至って、絵画の〈本質〉は、物質的基盤に求められるようになるのだ。

描かれた対象が〈本質〉を伴わないことを最大の問題としていた絵画は、自身を透明化して、あたかも描かれた対象の〈本質〉を備えているかの如く振る舞った末に、自身の〈本質〉を物質基盤に見出したのだ。

次の世紀に至ると、絵画は多様な様相を示すようになる。
近代化によって、教化や儀式、顕揚といった、場所と結びつく使用の目的から開放された絵画は、ロマン主義以降に多様化した主題とともに、その在り方を多様化させていくのだ。

その中で、絵画を物質的基盤からではなく、改めて絵としての側面から──つまり、描かれた対象との関係から考えようとする画家が登場する。

近代に至って「神は死んだ」わけで、そうした時代において、画家が自身の営みを、近世のように神の創造に準えることは、もはや不可能である。
レオナルドのような、絵画への信頼と自身の営みへの自信は、失われた。

そうした状況において、画家は再び、自ら描き出したものが虚であること、〈本質〉を伴わないことを、改めて実感していったように思われる。
……現代に生きる我々が、「絵は絵でしかない」と思えるのも、そうした時代の趨勢の末の事象なのだろう。

そうした実感をとりわけ強く抱いていた画家が、私にはマグリットだと思われる。

古典主義的に描かれた画面は一見、自然な空間を知覚させるが──その実、そこに描かれているものには、絵画そのものへの言及が含まれていたりするわけで──そこには、「絵は絵でしかない」 という、神が死んだ後の絵画のあり方が示されているように思われるのだ。

とりわけ、かの有名な《イメージの裏切り》は象徴的である。端的に、描かれた絵としてのパイプに対して、「これはパイプではない」と言い切るのだ。 自ら描き出したものが虚であること。〈本質〉を伴わないこと……。

本質主義という立場がある。
これは、事物に固定的で普遍的な〈本質〉が備わることを認める立場である。

私は、この立場への抵抗を、自身の活動の一つのモチベーションにしている。
そして、そのために、私は絵画という媒体が有効だと考えている。

なぜならば、これまで見てきたように、絵画という媒体は、〈本質〉をめぐる苦悩や思索を原動力にして、その有り様を展開させてきたと私には思われるからだ。

……これは、単に、「絵は絵でしかない」というだけの話ではない。

つまり、そこには、絵と描かれた対象のあいだの膨大な距離をめぐってなされた苦悩や思索と、それを踏まえた実践の積み重ねがかたち作る、歴史が存在しているということである。

そして、その歴史の各断面において、絵画には様々な〈本質〉が考えられてきた。

私には、その歴史そのものと、そこで考えられてきた〈本質〉の揺らぎが、〈本質〉というものを考えるための、一つの有効な足場となるように思われるのだ。

私は今回の展覧会で、ハイブリット画像という、鑑賞距離に応じて見える画像が変化する仕組みを導入した絵画作品を発表する。

それらの作品が、鑑賞距離の変化とともに示す二重の意味は、我々が日常の中で受け入れている現実の確からしさに疑いの目を向けさせる。つまり、「同一」のものが鑑賞距離に応じて別の意味として現れてくる様子は、事物の「同一性」 に関する観念に揺さぶりをかけるのだ。

私は、こうした、視点の移動や文脈に応じて常に変容し続ける〈本質〉を、伝統的に考えられてきた固定的で普遍的な〈固い本質〉と対比させて、〈柔らかい本質〉と名づけた。

私は、本質主義に抵抗するために、固定的で普遍的な〈本質〉の存在を否定したい。しかし、それは、世界を区画し整理する〈本質〉を完全に否定し、現実を混沌に陥れることではない。そうではなく、視点の移動や文脈に応じて常に変容し続ける、〈柔らかい本質〉から世界を考えたいということの提案なのだ。

それは、固定された真理や唯一の答えを否定しつつも、すべてが相対化される虚無へは陥らない、かすかな秩序や意味の模索である。

私は、絵画という媒体を、〈本質〉というものについて考えるための、一つの有効な足場として位置付ける。

そして、絵画を、現実の理解のための媒介とすることで、現実の新たな姿を示したい。

2025 年 6 月 13 日 菊池遼


菊池遼|Ryo Kikuchi

1991 年青森県生まれ。2015 年東京造形大学 造形学部美術学科絵画専攻卒業後、2017 年東京造形大学大学院 造形研 究科美術専攻領域修了し、2023 年に東京造形大学大学院 造形研究科造形専攻美術研究領域 博士後期課程を修了。
近年の主な個展に「存在の輪郭、輪郭の存在」(MEDEL GALLERY SHU NISEKO, 北海道 , 2024)、「unreachable」 (GALLERY MERROW, 東京 , 2023)、「parousia」(EUKARYOTE, 東京 , 2023)、「東京造形大学 博士審査展」(東京造 形大学附属美術館 , 東京 , 2022)、「OUTLINES」(EUKARYOTE, 東京 , 2019)他、近年参加した主なグループ展に「釘を打つ(打たれる)」(POOL SIDE GALLERY, 石川 , 2024)、「真実はそれが真実であるからでなく有意義であるから、我々の生活に価値があるのである」(EUKARYOTE / アートかビーフンか白厨 , 東京 , 2024)、「Let me see your…」 (NEWoMan 横浜 , 神奈川 , 2023)、「いろとこころ」(東京造形大学 , 東京 , 2023)など。


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“EUKARYOTE”は、2018年に東京の神宮前に設立したアートスペースです。美術の発生より紡ぎ続けてきた現代の有形無形、その本質であり、普遍的な価値を持つ作品や作家を積極的に取り上げ、残していきます。


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