プラパゴンの馬

プラパゴンの馬

EUKARYOTE 1F 2F


Information

EUKARYOTEでは2019年3月7日(木)から3月31日(日)までの会期にて、ユアサエボシによる個展「プラパゴンの馬」を開催致します。

大正生まれの三流画家ユアサエボシ
(1924年生まれ1987年没)

今展覧会では2015年に美術出版社から発見された原稿とともに、1965年に京橋の貸し画廊で行なわれた個展を再現致します。

Opening reception

2019.3.8 (Fri) 18:00-20:00

HOLIDAY

MONDAY

Design

Yosiyasu Saito

Cooperation Install

Rintaro Unnno


ユアサエボシ略歴

1924年( 0歳) 
千葉県東葛飾郡布佐町生まれ。本名湯浅浩幸。
1938年(14歳)
布佐尋常高等小学校卒業。画家を志す。
1940年(16歳)
挿絵画家の小林秀恒に弟子入りを志願するも病気を理由に断られる。
東京で看板屋の仕事に就く。
『日刊美術通信』に掲載されていた福沢一郎絵画研究所の募集要項を見て入所を決める。
研究所でエルンストの『百頭女』を見て衝撃を受ける。エルンストに倣い画集や雑誌の図版を組み合わせた絵画を制作する。
1941年(17歳)
福沢一郎が治安維持法の嫌疑で逮捕されたため研究所は閉鎖。看板屋の仕事に専念する。
1943年(19歳)
閉鎖となっていた研究所で留守番をしていた山下菊二と出会う。山下が描いていた《日本の敵米国の崩壊》の制作助手を務める。
戦時下の子供たちが愛読した雑誌『少年倶楽部』の挿絵を使ってコラージュ作品を制作する。
(戦時下では絵具も配給制になり、末端の作家たちは満足して絵画制作を行うことが出来なかった。ユアサも絵具が手に入らないときは、絵画制作の代わりにコラージュ作品を制作していた。)
1944年(20歳)
徴兵検査を受けるが、当時重度のヘルニアだったため不合格。
1945年(21歳)
進駐軍相手に瓦に似顔絵を描き日銭を稼ぐ。
(当時の似顔絵師たちはお互いの素性を詮索されぬよう、あだ名で呼びあっていた。ユアサはいつも寝癖が酷く逆立っていて、烏帽子のようであったことから“エボシ”と呼ばれるようになる。後にユアサエボシを作家名とする。)
1946年(22歳)
進駐軍がもたらしたアメリカ文化の影響を受ける。
1947年(23歳)
山下菊二、高山良策らが結成した前衛美術会に参加する。
第1回前衛美術展に出品。以後1950年の第4回まで毎年出品する。
研究所時代の知人である加太こうじに頼み、紙芝居の着色を担当する“ヌリヤ”の仕事をまわしてもらう。
1950年(26歳)
兵庫県西宮市で開催されたアメリカ博覧会へ行き感銘を受ける。将来渡米することを決意する。
1951年(27歳)
政治色が強かった前衛美術会に嫌気がさし脱退する。
1953年(29歳)
第1回ニッポン展に出品する。
1956年(32歳)
ニューヨークに渡米する。レストランで皿洗いの仕事をしながら作品を制作する。雑誌、新聞など作品に使えそうなものを日々買い漁る。
岡田謙三、篠田桃紅らと交流する。
1958年(34歳)
アメリカで購入してきた雑誌記事をもとに作品を制作する。
自らの絵画を自嘲の意味も含め“舶来転地様式”と名付ける。
(福沢一郎絵画研究所でのシュルレアリスムの影響、進駐軍がもたらしたアメリカ文化の影響、前衛美術会でのルポルタージュ絵画の影響を受けながら、独自の絵画を展開する。)
1964年(40歳)
第8回シェル美術賞に、《騎士》を出品して佳作入選する。
1965年(41歳)
生活苦からガードマンの仕事を始める。
京橋の貸画廊で個展を開催する。《魔術師》と共に“黒い紙芝居シリーズ”を展開する。
1978年(54歳)
母親の死をきっかけに世間と距離を取るようになり、自身の内的世界に閉じこもるようになる。写経をするように自身の過去作品を繰り返し模写する日々を送る。
1983年(59歳)
アトリエ兼自宅が全焼する。作品や資料を外に運ぼうとした際に重度の火傷を負う。
1987年(63歳)
火傷の後遺症により逝去する。

実存の略歴はこちら
http://eukaryote.jp/exhibition/yuasa_eboshi_solo_ex/


MORE EXHIBITION


EUKARYOTE is an art space which has been established in Jingumae, Tokyo, in 2018. Within the concept of something more than an occurrence of art, there is an ever spinning contemporary coin of tangibility and intangibility, and it is this essence, this universal value held by artworks and artists, which is actively accepted but left behind.


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